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単騎独考

私は錆びた鉈のように鈍く生き、よく使い切った歯磨き粉のチューブのように死にたい。

方法論

今回、どうしてこんなにドキュメンタリーの完成が遅延しているのか「宗教を映画にする難しさ」について寄稿して欲しいとある雑誌に依頼されたが、何だったのか自分でも確かめるために書くだけ書いてみて、その上で辞退した。原稿料は惜しかったけれど。

 

ファーストカットと今のカットの違いは、方法論的に言うと物語の人称視点の問題だ。撮影時、カメラマンには、「私をナメて、荒木浩を捉えてください」とお願いしたが、それを忠実に実行してくれた。

 

これはNarrativeの問題だ。

 

「私をナメて、荒木浩を捉えてください」は三人称視点背後霊型と言われるNarrativeの視点だ。

 

この視点で作るということは、主人公は私である。観客が物語を経験するために乗るビークルは私でなければならない。

 

私が何かを試み、貫通目標に向かって格闘する、そういう映画にしないといけない。

 

実際には人称視点は私のこの映画では結構移動する。

 

大切なのは、荒木浩を主人公にする瞬間を絶対に避けることだ。

 

そうでなければ、この映画のNarrativeの文法が崩壊する。

 

 これを「観察映画」風に編集し、ファーストカットは大失敗した。

  

「観察映画」は監督の編集によらないと成り立たないのではないかと思う。

 

実際、ワイズマンも、佐藤真も、想田和弘も例外を除き自らで編集する。

 

構造的に「観察映画」の編集方針はこの企画には不向きであった。

 

映画際辞退後、高校生相手に試写するとみんなグーグーと眠った。

 

例えば、私が去って行く荒木浩を見送ると、人称視点を考えれば、私の視点の一つで終わらなければならない。だから、見送られた先の荒木浩の視点というのは存在する必要がない。

 

「撮っておいた方がいいんじゃないですか?」ということで撮ったのだが、ファーストカットでは主人公が誰かを決めずにやってそれを使ってしまった。

 

今のカットでは存在しない。

 

このドキュメンタリーの特徴は「被害者が加害者側の人物と旅行する、その被害者が監督だ」ということだが、それは構造主義的な機能論、物語論の中で、Narrativeをどうするのかということに具体的な技術的課題は集約された。

 

一人称、三人称、三人称、三人称背後霊型、POV、神の目視点を小気味よく出入りさせる。

 

それが非常に難しかった。

 

日本の表現のドグマは根本的には国文学なので「読解と鑑賞」のリバースエンジニアリングなので、私のような説明は理解されないし、忌み嫌われる。

 

普通、映画の世界の人は人称視点をここまで厳密にはやらない。

 

だから映画の世界の人が小説を書くとプロットのようになってしまいがちだ。

 

日本の人でこういう説明をしてくれた人は一人もいない。理解してくれた人は一人だけいたが、アメリカで教育を受けた人だった。

 

私の映画作りは極端に構造主義的機能論的でアメリカのやり方に近いのだが、アメリカの人にも理解できない。

 

英語で小説を書くと言語の成り立ちから、人称視点という問題は起こりにくいので、人称視点という概念の存在が薄いからだ。

 

私の方法論が標準的だとは思わない。

 

特殊な企画に対し、特殊なアプローチを模索した。

 

最新のカットを旧友に見せると「日本の近代小説の系譜の私小説のようになったね」とのフィードバックをもらい、「我が意を得たり」との思いだった。

 

しかし、海外の観客、批評家がどこまで理解してくれるかはわからない。

 

この映画の再編集は日本流の私小説を欧米流の構造主義的機能論を日本流にアレンジしながら作り上げるという作業だった。こういうやり方を続けようとは思わないが、この企画のアプローチの個性はそういうことではないかと思う。

  

どこかで詳述したい。

 

公開の際、思想と映画を扱う雑誌で寄稿させてもらえないだろうか。

 

「宗教を映画にする難しさ」というのは面白い視点だが、本質はそこではないかもしれないとも思う。

 

結局は根本の根本、「誰が、どうして、どうなる話」という原理原則をしっかり守るために何をどうするのかという基本に関する失敗であった。 

 

方法論上の議論としてはそんなところだろう。